あなたは美しい。
あなたが生きているあいだに、そう云ってあげられなかったことを、わたしは悔やんでいる。
あなたのことは社交界の噂で耳にしていたが、初めて会ったのは、馬車のことで助けたあの日だった。
わたしを真っすぐに見上げた顔の右半分は醜くただれ、瞳さえ見たこともないような色に変わっていた。
挑むような強い視線は、一瞬たじろいだわたしを試すように離さない。
その鋼のような強さに、たいていのものは怖じ気づいて眼をそらすだろう。皆が恐れ、憐れみ、陰口をたたくのは、あなたの顔の傷ゆえではない。あなたのまっすぐな強さが怖いのだ…。
だが、わたしには見えた。そのつよい心の奥にひそむ、傷つきやすくやわらかい魂が。
あの若き日々…。下級貴族の次男坊には叶うはずもないような、熱く黒い大きな野望が渦巻き、わたしの背中をつよく押していた。望みの大きさゆえに劣等感で押しつぶされそうになっていたのだが、誰にも気づかれぬように振るまっていた。
だれにも理解されず、だれとも分かち合おうとせず、傷つきやすく誇り高い魂をもつわたしたちは、とてもよく似ていたのかもしれない。
あなたは、助けられたのに意地を張っていて傲岸でさえあった。あの日のわたしには、とても痛々しく感じられたのだ。
そして同時に、わたしの野望が耳元で叫びたてる。
「侯爵家は婿を探している。絶好の機会だ、逃すんじゃないぞ…!」
そう、あなたのことは嫌いではなかった。
ただ、わたしの栄達のためには、生きていてもらっては困るだけだ…。
あなたは、わたしを愛していると云った。わたしのためによろこんで役に立ってくれるね…?
月日は過ぎていった。
戦争の中ではげしく移り変わる政権に食いこむと、権勢も富も思うがままこの手に転がり込んでくる。
そう、わたしが望むままに。
…あなたがくれた、侯爵の称号のちからと、わたしの才覚で。
いま、あなたに戻って欲しいといったら、あなたは許してくれるだろうか…?
もう決して取り戻せないことなどわかっている。
どんなに美しい女も、あなたとは違う。当然のことで、あまりに愚かな考えだ…。
何でも手に入れてきたわたしが、二度と取り戻せないものをこのように激しく思うとは…!!
あの伯爵家の昼食会。美しい夫人、息子と娘。
わたしが捨ててきたもの、もう永久にとりもどせないであろう絆を、午後の柔らかく暖かい光の中で見せつけられた。
白昼のなかに身を置きながら、この手で殺したわたしの妻を思った。よく似たわたしと妻の魂は、暗やみに浮かび、風に煽られてまたたくふたつの小さな篝火だ…。わたしの黒い髪も瞳も、濡れていびつな黒い翼も、この一家のなかではまったく異質なものだ。この明るさ、暖かさに焼けつくように憧れ、そして、ただ憎かった。尽き果てぬ嫉妬に狂い、夜ごと身をよじられた。
気に入らない。気に入らない…!
アルジェリアのことなど、一家を破滅させるための口実だ。あの男になりかわりたいと願ったところで、わたしを愛さぬ女など欲しくない。あの商人は、わたしが夫人に執心していると思っているようだが、その方が都合がよいというものだ。
見ているだけなどもどかしく、馬車から飛び出していって、この手で息の根を止めてやりたかった。にわか雨と雷のなか、わたしもずぶ濡れになりながら男の喉笛を切り裂き、血をすする…息子もそうしてやろう。わたしはせまい馬車の中で、身も心もはげしい悦びにふるえた。
おのれが破滅に向かいはじめているのを知りながら、おびえた夢がわたしの背中を断崖に向かって押し続けるのに逆らいはしない。
虚栄の麻薬におぼれたわたしの野心よ、悪魔の翼もてるなら高みへ昇り続けるがいい…!!
生き残ったあの娘。ヴィヴィアンヌといったか。
わたしを見るあの眼。あの家の者どもを憎んだわたしも、あんな眼をしていたか?おのれを捨てても相手を破滅させたいと願う、あの眼を?同類だけがわかる、憎しみの篝火をやどした眼を。
ならば、ヴィヴィアンヌは、わたしと妻の間に生まれた、わたしたちの娘だ。
あなたもそう思ってくれるだろう?
ああ、妻よ、あなたの嗤い声がこの耳にこだまする。今になって、こんなにもあなたが恋しいとは。
writed by musette/2004.1.23