ぽりーんのおばかレポート東洋史の巻

writed by ぽりーん

プログラムの音楽評論家氏のコラムによると『トゥーランドット』というお話しの背景にある中国は架空の時代なんだそうです。でもね、皆さん。セリフのそここに国名が出てくるじゃないですか。だれそれがどこそこの王子だの、王女だの。それって疑問が湧いて来ませんか??ぽりーんはふつふつと疑問が湧いてくるのです。
ぽりーんはおばかさんですが、オタクです。オタクは真摯な態度で疑問に接したいと思います(^^;)。取り出したのは懐かしくも、世界史小事典(山川出版/第2版)。 ティムールが滅びたのはいつ〜〜〜??? そこから私の長い歴史の旅は始まったのでした…………。

【ティムール帝国】

モンゴルのバルラス氏族のティムールによって1370年にサマルカンドを都として成立。
1494年、9代皇帝逝去時、帝位に就くべき人物であった8代皇帝の弟が死んだ為、その子バーブルが継ぐが、1500年ウズベクがサマルカンドを占領し、帝国は滅びる。バーブルはその後アフガンに拠って、インド・ムガール朝の祖となる。

■ムガール朝の祖ってことはバーブルはムスリムですかね。でもって、帝国が滅びて国を追われたってことはカラフのモデルなのかしら?
さて、ティムールが滅びた1500年代というと、中国は言わずと知れた明朝。日本とも貿易関係にあった小学校の時から馴染み深い国でございます。

【明】

太祖は朱元璋(洪武帝)。濠州(今の南京辺り)の貧農出身。紅巾軍の首領から帝位に就く。

■……貧農?!トゥーランドットさまは貧農の子孫ってこと???ってことは1000年前のローウリン姫とは赤の他人ってわけね、トゥーランドット。
でも一応漢民族だからってゆーますます説得力のない理由が殺戮の原因ですか?ってことは私はアメリカ人を殺戮しまくらねばならんという理屈になるが(^^;;;;

ちなみに1500年前後の明皇帝は二人。10代・孝帝(弘治帝)の在位が1487−1505年。11代・武帝(正徳帝)が1505−21年。(この時点で、資料は吉川弘文館、標準世界史年表も出現)各皇帝の没年齢までは不明ですの(^^;)。
10代、11代は系図からいくと直系の親子。でも12代を継いだのは9代の孫。10代の血統は11代で終了。

■無理やりこじつければトゥーランドットのパパは11代辺りが妥当なのかしら(^^;;;;

ついでまでに北京を首都にしたのは元のフビライが初めて。言わずと知れた当時の名は大都。ただし、明朝の最初の首都は應天府(現・南京)。1402年から順天府(北京)が首都になっております。

■つまりは1000年前の「この城」はなかったんですよねートゥーランドット。

もっとついでに言えば1000年前の中国は南北朝時代。北京があるべき辺りは北魏の田舎(^^;)。明朝は元々南京辺りの人ですから、1000年前はちょうど王朝と王朝の狭間。斉が滅び、梁が興ったのが502年。

■ローウリン姫のあだ討ち(^^;)のために殺戮を繰り返すトゥーランドット。いかに1000年の昔といえど、その時代、ほとんどが漢人たちの争いじゃないの???五胡十六国時代とは違うから…………。いえ、苦手な中国史。本当のところは知りませんけども。

…………閑話休題。

カラフはパパが北京にいるらしいと聞いて、北京に向う途中の山中で賊に襲われるコラサン王国のアデルマ姫一行に出会いますよねぇ……。この出会いのシーンのあの中国の水墨画を思わせる山々ですが、桂林辺りが通り道にあったのでしょうか?プログラムにはコラサン山中とあります…………。
さて、ここでの疑問はまずコラサン王国なる国。ネットで検索かけても『砂漠の黒薔薇』関係でしかひっかかりません(^^;)。12世紀にコラズム帝国というちっこい国はありましたが、コラズムという都市もあるようですし、別物でしょう。じゃあ、まるっきりの創作か???というと、これがそうでもございません。国名ではありませんが、カスピ海の辺りにコラサンという地域があるのでした。桂林とは全然別方向だが。ましてや歴史地図では等高線など分かるはずもございませんから、あんな山が存在するのか、疑問は晴れませんが、「あの故郷の海のたえまない潮騒を聞くような」なんてセリフがあるように、一応カスピ海付近だから潮騒も聞けるということで、よしとしましょう(^^;)。
……おや?カスピ海ってゆーと、サマルカンドより西ですよねぇ……。北京に行くつもりのカラフがなぜサマルカンドより西にあるコラサンに居たのでしょう???(ここら辺りで資料に吉川弘文館標準世界史地図まで持ち出しております)桂林を無理やり通った方が説得力がありますぜ。しかもアデルマ姫ったら、そんな北京から時差までありそうなコラサンにお忍びで墓参りなんかに参ったら、襲ってくれと言っているようなものだと思いますけどねぇ…………。それともこの時点でコラサン王国はまだ滅びでいなかったのですか???もっとも、この時代のコラサンはティムール帝国領内なんだけどさ…………(^^;)。

もうひとり、亡国の王子がおりますね。バラクさま。彼はラサの王子だったそうです。
ラサはすぐにみつかります。チベットの首都です(^^;)。よって国名ではありません。
バラクは完全な木村先生のオリジナルですから、ラサの王子にしたのは木村先生の罪です。カルロ・ゴッツィのせいでもプッチーニのせいでもありません。
吐蕃と呼ばれたチベットは7世紀頃に強大になっております。唐と婚姻を結んだり、同盟したりしています。ダルマが出たのは841年ですが、それ以降吐蕃は衰退の一途で、以後近世まで情勢は不明ということです。ま、だからもしかしたら、1500年付近で一時王国が存在したかもしれませんわね(^^;)。

お気の毒な若くて、美しいペルシアの王子さまは首をはねられます。
ペルシアと言えば、アケメネス朝ペルシア。ササーン朝ペルシアなど高校の時に頭をウニにしながら覚えたことがございます。私は西洋史も日本史も好きですが、東洋史からオリエントにかけては苦手です(^^;)。アケメネス朝はアレクサンダー大王が壊しました。ササーン朝はアラブの勢力に潰されました。それもこれも紀元前の話しと紀元後早々の出来事です。

ペルシアと言えば早い話しがイランのことです。1935年に国名をイランと定めていますが、それ以前19世紀にはカジャール朝ペルシア王国という国が地図上にございますが、1500年頃のイランの辺りにあった国は……歴史に詳しい方はお分かりですよね、ティムール帝国です(^^;)。
ですから、プッチーニが生きた時代はイランのことはペルシアと呼んでいたのですね。プッチーニの遺作オペラ『トゥーランドット』が未完のままに終わり、プッチーニが亡くなったのは1924年です。
そして、疑問は何一つ解決されないまま、謎は深まり、結局寓話だから……ってことで落ち着く私でございました。
もっと東洋史をしっかり勉強しておけばよかった…………。

《参考文献》
山川出版:世界史小事典(第2版)
吉川弘文館:標準世界史年表(第30版)
吉川弘文館:標準世界史地図(増補第28版)




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